春日井駅今昔


ちょっと長いけど、春日井駅の歴史を
学んでみよう!
   
一、 駅開設当時
 偶々、春日井市制三十周年を迎え、この機会に国鉄春日井駅の開設以来約半世紀にわたる歩みを回顧してみると、その間のさまざまな移り変わりは、そのまま春日井市の歩みの一面であり、また、国鉄の歩みの一部でもあって今昔の感に堪えない。

 さて、本市と国鉄との関連であるが、神領地区には、名古屋鉄道局管内で最大と云われる電車の車輌基地があり、そのほか本市のような一地方都市で、国鉄駅が五ヶ所も存在するところは、全国的にもあまり類例を見ないことである。この中、勝川、高蔵寺、定光寺の三駅は、明治年間中央線開通の際既に開設されたものであるが、春日井駅(以前は鳥居松駅)は、昭和の初年に、神領駅は、終戦後にそれぞれ開設されたものである。
 そして、この中どれが本市の玄関駅であるかと云えば、いずれとも断定しかねる状態であって、現に上級クラスの駅長が常駐し、急行列車も一日一往復停車し、市の中心部とも至近な距離にあるので一応春日井駅が本市の玄関駅と云うことになっている。

 元来、中央線の勝川駅と高蔵寺駅の区間は、大変長かったので、この中間に一駅を是非とも設置してほしいという地元の熱心な要望と、当時の鳥居松村、篠木村の為政者や、有力者の献身的な努力によって、昭和二年十二月十六日両村の地境である鳥居松村上条大字和爾良の現在の地点に地元民大歓迎の中に鉄道駅が開設せられた。そして当時の駅名は鳥居松と云われ、ささやかな田舎駅であったが、鳥居松村、篠木村、更に大草、志段味方面から名古屋へ通う通勤者や通学者にとっては、大切な交通の拠点となったわけである。

 駅の記録によると開駅当時駅職員は、駅長以下わずか十一名(現在五十名)で、停車する列車の本数は、上り下り合わせて三十六本、通過列車九本、一日平均乗降客約六百人(現在一万五千人)年間旅客収入一万九千七百八円、貨物収入四万三千百四十九円と記されておる。また、列車取扱方式も単線運転で手動式信号タブレット方式によっていた。
次に駅周辺の情景であるが、道路と云へば駅前広場から上条と関田に通づる幅四間の道がただ一本東西に走り、それに駅前にはタバコ屋と一、二の菓子や青物等を売る商店と運送店(当時は鳥居松の油茂商店が経営)があるのみで、その他は、割塚集落、上条集落の農家が木立や藪の中に点在していたにすぎなかった。そして駅の周辺は、一面の田畑で、特に駅前の関田地内では、時々地蔵川のはん濫により道路が冠水して通勤者が悩まされたものであった。しかし他面、陽春の季節には、青々とした麦畑や真黄の菜花畑を越して遠く庄内川堤の桜並木や、竜泉寺裏山の山桜の美しい景色を駅舎やプラットホ‐ムから一望に収めることが出来た。

 また、当時の駅及び駅職員と地元住民との人間関係は、請願駅という性格に加えて鉄道官員のご時勢でもあって、駅側は地元民から大変親しまれていたようである。今茲に二、三の思い出を例に挙げてみると、地元の名士や有力者等が列車に乗るときは、常に列車待ち時間を駅長室で一服し、お茶などご馳走になって悠々と乗車したものであった。その他の一般の乗客及び通勤者も数少く互に顔見知りの人々ばかりであったから駅は彼等のコミュニケ‐ションの場であり、一寸した社交の場でもあった。

 また、何時の年の暮のことであったか、駅員の忘年会が駅前の民家加藤某氏宅で開催されたことがあった。その時、加藤家の入口に「鉄道省鳥居松駅様忘年会場」とぎょうぎょうしく大書した立看板が立てられてあったことを記憶しているが、これをみても当時の世相や、鳥居松駅と地元住民とのつながりを伺い知ることができる。

二、 戦時中  
このように開設以来十年間、駅と地元民、あるいは、駅を媒介とした通勤者相互の温い心の触れ合いの中にのんびりした情緒にしたっていた田舎駅も、昭和十二年七月支那事変のぼっ発とともに次第にその様相を変え、あわただしい戦時色に包まれてきた。

 出征兵士の見送りや、臨時軍用列車の接待のあるたびに村役場の関係者、在郷軍人、愛国婦人会、青年団等をはじめ一般住民の人々がこの小さな駅につめかけて、時には待合室や、プラットホ‐ムも溢れるばかりの混雑を極めたこともあり、同時に駅の業務も次第に繁忙を極めて来た。このような駅の戦時色に更に拍車を加えたものが、鳥居松陸軍工廠(現在の王子製紙春日井工場)の建設であった。駅の西南部の東春日井郡の穀倉地帯とも云うべき上条地区一
帯に当時の軍の至上命令で昭和十四年ごろから陸軍直轄の軍需工場の建設工事が進められ、昭和十五年工事の一部完成と同時に兵器生産に突入したわけである。

    そのために鳥居松駅においても軍用資材、軍需品の着発、軍幹部要人の往来、全国から動員されて来た産業戦士(当時軍需工場で働く職員のこと)の通勤のための乗降や、また、時には悲しい無言の凱旋兵士の出迎え等によって駅務は、いよいよ繁忙を極め戦時色が濃厚になって来た。
 
  そして昭和十六年十二月大東亜戦争に突入するころには、既に従来の小さな駅の規模では駅務を捌き切れなくなっていた。そこで鉄道省においては、軍と協議の結果、鳥居松駅の大改造を計画し、戦時中の乏しい建築資材を投入して、駅舎並びにプラットホ‐ムの改築、駅構内の拡張、鷹来工廠軍用側線の併設等日夜突貫工事を遂行した結果、昭和十七年七月十六日完成した。これが現在の国鉄春日井駅である。

  その当時としては、上り下り線の両プラットホ‐ムを地下道で連絡し、表口と裏口の両面に駅を構え、しかもプラットホ‐ムには上屋(プラットホ‐ムに屋根が架けられてあること)が設けられて、中央線のうち名古屋駅を除けば屈指の立派な駅の一つであった。その後、間もなく(昭和十八年六月)勝川町、鳥居松、篠木、鷹来村の四ヶ町村合併による春日井市が誕生するに及んで鳥居松駅は正に軍都の玄関にふさわしい規模を誇っていた。

    昭和十九年に入って敗戦の色が次第に現れてくるにつれて、国内の主要都市に対する米機の来襲がひんぱんになり、遂にわが鳥居松軍工廠も再三にわたって米機の洗礼を受けて甚大な被害を被った。しかし、幸にも鳥居松駅だけは、辛じて空爆による壊滅をまぬがれることができたので、今日までそのままの姿をとどめている。その当時国鉄では、多数の壮年男子が軍に応召されていたため、鳥居松駅においても、高齢幹部職員を除いては、大多数が女子職員で駅務が運営死守されていた。こうして終戦を迎えた駅は、敗戦による混乱と虚脱状態の社会の中で唯一の交通機関であった鉄道輸送の一拠点として復員列車の輸送をはじめ春日井市民の足として大きな役割を果たしていた。そのため駅は、名古屋方面から疎開移住した人々の通勤ラッシュや、時にはヤミ食糧の買出し部隊の人々の乗降で、一時的であったが活気があった。周知のとおり終戦前後は極端な食糧難時代で主食類は厳重な統制下におかれていたため買出し部隊の人々は、時々駅頭で検挙され、折角手に入れた食料品が没収され、米、麦、豆、芋等の山が待合室に積まれたことも当時の駅頭風景であった。

三、終戦後
   昭和二十一年五月鳥居松駅は、春日井駅と改名せられ、本市を代表する国鉄駅ということになったが、社会が終戦直後の混乱からようやく落ち着きをとりもどした頃には、市内にこれといった地場産業もなく、また疎開人口も次第に減少するにつれて、駅は全くさびれ殺風景な田舎駅に逆もどりして、駅周辺は場末のスラブ街を思わせるような荒れはてた環境になった。偶々、昭和二十五年に至って軍工廠の廃虚の跡に王子製紙蟒嫺井工場が建設される運びとなった。これを契機として駅においても王子製紙工場専用側線の建設に伴って王子向けの貨物の扱い量が急増した。こうして貨物収入の増大により、春日井駅は、一躍にして国鉄部内においても主要貨物駅の一つとして重要な地位を占めるに至った。また、旅客サ‐ビス関係においても昭和二十七年九月国鉄バス乗り入れ、同三十九年三月複線自動化運転開始、同四十一年七月中央西線複線電化工事名古屋‐瑞浪間の完成によって列車の増発とスピ‐ド化が実現せられ、更に同年十月一日急行列車一往復の停車駅に指定せられ、名古屋市に隣接した好適な通勤駅として広く世間の注目を浴びて来た。

 この間、春日井市においても工場誘致政策が実を結び、各種の工場や事業所が急増し、移住人口の激増によって目ざましい躍進を辿った。特に市役所を中心とする周辺の商店街の開発と近代化によって新興都市の風格を整えつつあるが何故か春日井駅及びその周辺は、市の発展から取り残されている感がある。そのため十九万都市を期待して春日井駅頭を訪づれた外来者が、駅前の情景を見て呆然としたという話を、しばしば聞くところである。これは、駅前の区画整理事業の遅延や、瀬戸線乗り入れにからむ困難な問題によって、駅舎の改築や駅前の整備が立ち遅れているとも云われているが、更に最近のモ‐タリゼイションの発達、高速道路の開発によって国鉄に対する市民の関心が次第に薄くなって来たことも否めない事実である。

 しかし、本市の都市計画街路はすべて春日井駅指向型に計画されており、春日井駅を交通の拠点、市のメインステ‐ションとするなれば、早急に本市の発展にふさわしい開発整備とム‐ド造りが期待されるとともに、このことがとりもなおさず半世紀前鳥居松駅の誘致設立にあたり、物心両面の献身的な努力をされた郷土の先輩各位の業績に報いる道でもある。

春日井市制三十周年を記念して
昭和四十八年十月
割塚町一九六
田 中 貞 巳 識



                                                歴 代 駅 長

                身分 氏名 就任年月
初代 判任官・鉄道書記   小田木   国太郎     昭和2年12月
2代    南形   多助    昭和5年2月
3代    増田   補鎮    昭和8年8月
4代    渡辺   豊    昭和10年3月
5代    岡嶋   喜作    昭和12年3月
6代    内藤   菊蔵    昭和16年3月
7代 鉄道官補    杉浦   松冶郎    昭和18年3月
8代    宮川   克巳    昭和18年10月
9代    長江   国松    昭和20年10月
10代 運輸省・鉄道事務官    筑田   恭太    昭和21年7月
11代    荒井   長太郎    昭和23年2月
12代    出口   喜三郎    昭和24年8月
13代 国鉄職員    阪堂   新一    昭和27年4月
14代    長瀬   之    昭和28年11月
15代    毛利   庄七    昭和31年3月
16代    富田   忠司    昭和33年2月
17代    園井  与六    昭和36年3月
18代    野田  乗    昭和38年2月
19代    中原   佐一郎    昭和41年2月
20代    鈴木   一男    昭和42年2月
21代    堀   正行    昭和44年2月
22代    高木   永三    昭和46年2月
23代    芳田   光蔵    昭和48年2月

         
駅 の 沿 革
昭和02年12月16日   鳥居松駅として一般運転営業開始
昭和02年12月16日   庄内川砂利専用側線使用開始
昭和14年12月11日   陸軍造兵廠専用側線使用開始
昭和16年08月03日     陸軍補給廠専用側線使用開始
昭和16年11月26日   不二見焼蠕賤兮線使用開始
昭和16年12月12日   貨物線新設
昭和16年12月22日   地下道新設巾3m長さ42m
昭和17年07月16日      駅本屋増改築、裏駅新設
昭和17年09月10日         鷹来工廠専用側線使用開始
昭和21年05月01日       春日井駅に駅名改称
昭和23年10月01日      旅客案内用拡声器使用開始
昭和24年12月29日     鷹来工廠専用側線撤去
昭和26年05月24日    王子製紙蠕賤兮線使用開始
昭和27年08月27日    電気式駅名掲示板新設
昭和27年09月08日     国鉄バス春日井駅乗り入れ開始
昭和39年03月14日    複線自動化運転開始
昭和41年07月01日      名古屋-瑞浪間電化完成
昭和41年10月01日    急行列車1往復停車開始
昭和46年03月31日    県道切替えに伴う上条踏切廃止



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