春日井の黄金伝説の話


春日井市に眠る黄金、、神秘なる黄金伝説。探してみますか?

1、三つの伝承地
 黄金伝説は日本の各地に存在します。有名なところでは佐々成政が埋めたと伝える富山県鍬崎山の黄金伝説がありますが、その謎めいた「朝日射す夕日輝く鍬崎に七つ結び七結び黄金一杯光り輝く」の里歌は広く人口に膾炙し、聴く者をして黄金発見の夢に駆り立てるものです。

 ところで我が春日井市にも黄金伝説は存在します。かって人々を金掘りに奔走させたとも伝える件の地は次の如くです。
(1)「朝日射す夕日輝くその下に黄金三升」の言い伝えのある上野三升坂、即ち旧国道一九号(下街道)が坂下を過ぎて潮見坂方面にかかる上り坂辺り

(2)「朝日射す夕日輝く鳥の松いけたる金は五万両」の言い伝えのある五万両山、下原古窯背後の高台即ち現桃花園団地の一角

(3)「朝日射す夕日輝く」場所に金の縄と銀の宝物が埋めてあると伝える大草城址、即ち生地川を隔てて春日井市に接する小牧市大草福厳寺の一角です。

 地図を参照して頂ければ直ぐ分かる通り、極めて狭い地域に伝承地が集中しています。共通して鍬崎山の場合と同様に「朝日射す夕日輝く」下に黄金の場所を伝えるのも面白いのですが、これは黄金伝説の一般的表現様式でもあった様で、全国的にも多くの例が見られるものです。問題は、それ等が春日井市から小牧市の一部にかかる丘陵地帯に集中している事です。春日井市周辺にも黄金伝説の一つくらいあってもおかしくはないのかも知れませんが、何故さして広くもない丘陵地帯の一角に、重なる様にして三つも伝承地が存在しているのでしょうか。「伝説」が成立し、また長期に捗って継承されるには、何らかの背景があるはずです。その事情を探って行けば「黄金」の正体も見えて来るはずですし、たとえ黄金ではないにしろ、郷土の埋もれた歴史の発掘作業という事にはなるかも知れません。


2、黄金伝説の理解
 「朝日射す夕日輝く」下に黄金が埋められているという伝説が全国的なものだという事は先に触れましたが、これは民俗学の分野では「朝日夕日伝説」或いは「朝日長者伝説」として分類されるものです。

『日本伝説名彙』では富裕招福・長者伝説の代表格として黄金を手にした全国の「朝日長者」を紹介し、更にそれに因んで「朝日さす夕日輝く云々」で始まる「朝日夕日伝説」を並べています。『名彙』ではこの他、黄金に恵まれた長者として「真福長者」「炭焼長者」云々等の沢山の長者も紹介されています。その数ある長者の中でも「炭焼長者」と「朝日長者」は双壁を為すものなのですが、この炭焼長者に関して、柳出国男は「炭焼き小五郎が事」という論考で、非常に重要な示唆を行っています。即ち「炭焼き」の徒は単なる炭焼きではなく、金工冶金鋳物に携わった人々=「金屋」の徒であったという指摘です。これについて此処では詳しい事は割愛せざるを得ないのですが、この柳田の指摘以来、若尾五雄・高崎政秀・谷川健一等々気鋭の研究家によって日本の黄金伝説の或る部分には、非農耕民としての「金屋」即ち「産鉄民」の営みが大きな影を落としているのではないかと考えられる様になってきました。

 「朝日射す夕日輝く」下にある黄金は所謂「GOLD」ではなく、「鉄」を指すと考えられるならば、黄金を産する金山でもない土地にも広く黄金伝説が分布している理由が、論理的整合性を以て理解されて来る訳です。

 古来、山陰地方は優良な砂鉄の産地として鉄の精錬が行われていました。鉄穴流しと呼ばれる方法で大規模な砂鉄採集が行われてきたのですが、彼の地での往時のたたら製鉄の在り方が、江戸期に書かれた『鉄山必要記事』という文献に伝えられています。

その記事中に、古伝承に属す「金屋子神祭文」が引かれており、「朝日長者」が砂鉄(こがね)を吹けば鉄の沸く事限り為しと記されています。砂鉄の事を粉金(こがね)と呼んだのはこの記事のみならず、当時の一般的な言い方でもあった訳で、この様な事から「朝日さす夕日輝く」下の黄金とは「こがね」即ち砂鉄に因む鉄ではなかったかと考えられて来るのです。名古屋市の金山駅付近の金山神社はかつて「鉄山明神」となっていました。「かね」が鉄であった時代は遥かに長かったのです。


3、西山製鉄遺跡
 ならば、先の三つの伝説地には製鉄の痕跡を伴うのかという事になります。先の五万両山と大草城址の中間、大池の近くに金谷浦という場所があります。金谷も金屋も同義で鋳物や鍛冶に因む地名です。当地にはかつて鉄仏が祀られていました。鉄製の仏それ自体文化史的には大変貴重なものなのですが、それだけでなく、その付近即ち国道155号を挟んで隣接する西山の畑地には現在でも鉄滓(すらぐ)が出土します。この鉄滓こそ当地が産鉄に因む金屋であった動かし難い証拠となります。当地の鉄滓については公式な考古学的調査が為されてはいませんが、膨大な量である事は間違いなく、今でも表面採集は可能です。この西山遺跡については地元の梶田元司さんの研究があり、故井塚政義教授も深い関心を持たれた所でした。私も昨年夏、梶田さんの案内で此の地を訪れましたが、鉄滓を直接手にした時の強い衝撃はいまだに忘れる事は出来ません。春日井市に製鉄遺跡が存在する事は意外に知られていませんが、この事はもっと認識されても良い様な気がします。

 ではその鉄の素材は何だったのでしょうか。私はかつて尾張の鉄遺物の素材として、この地域一帯に豊富な褐鉄鉱を想定してみた事もあるのですが、西山遺跡の場合は砂鉄であったと断言出来る様です。と言うのは、この地に隣接する丘陵では豊富な砂鉄が出るからです。この丘陵一帯は高速道路及び宅地造成で景観が一変しましたが、それでも砂鉄の出る場所は残っており今でも採集は出釆ます。そこは東名高速と中央道が合流する小牧ジャンクション付近の崖地で、かつて梶田さんは此地で砂鉄を200kgも採集され、関の刀鍛冶に頼んで立派な日本刀を二振り作られた程です。私も現地で実際に採集してみましたが、磁石を使えば短時間に相当の量が採れます。雨上がりには黒々とした砂鉄が竜の様に浮き上がります。そう言えばすぐ近くの大池には雨上がりに竜が現れるとの伝承がありますが、或いはこの事を言っているのかも知れません。福厳寺の池にも竜が住んでいたと伝えられています。竜の伝説を追えば又それなりに面白い事柄も多いのですが、本論の目的ではありませんので此処では省きます。

 ところで、この砂鉄産地ですが、地図を見て頂ければ直ぐわかる様に現在では高速道路によって分断されていますが、「朝日射す夕日輝く」の黄金伝説を伝える福厳寺に隣り合っています。そして、この福厳寺の北、かつて西尾道永の居住した大草城址から谷一つ隔てて、もう一つ、製鉄遺跡が在りました。


4、狩山戸製鉄遺跡
 この製鉄遺跡は今では存在しません。それは小牧市桃花台丘陵と東名高速道路の接点、即ち高根のホウトク産業の近くで、狩山戸遺跡と言います。地図を見れば大草と目と鼻の先の距離にある事が理解されると思います。此処でもかつて膨大な量の鉄滓が出土しました。現在では調整池に変じ昔の様子を窺うことは出来ませんが、小牧市教育委員会から詳しい発掘調査報告書が出されています。私もこの報告書で狩山戸遺跡の存在を知ったのですが、隣に平安末頃の古窯が何基か並んでおり、たたらの稼動期はほぼこの頃ではなかったかという事です。

一世冊は桃畑になっていますが、確かにこの周辺を歩くと今でも白瓷(じ)系の土器片が確認されます。この遺跡の様に古窯と製鉄址の併存が見られるのは大変興味深い事です。何故ならば、須恵器窯の高温技術が鉄の還元にも応用された事を示唆するものだからです。鉄は周知の如く800度くらいから還元を始めます。これは私が能登の博物館学芸員の方から直接聞いた事ですが、彼の地では中世炭焼窯跡から鉄滓が発見された例もあるそうで、製鉄と言えば高殿を持つ大掛かりな施設を連想しがちですが、案外簡便な方法で鉄は得られていたのかも知れません。報告書ではこの製鉄遺跡以外にもまだ幾つかの製鉄遺跡が存在していた可能性にも触れられていますが、今となっては不明となっています。

 この製鉄遺跡背後の丘陵には篠岡古窯群として知られる無数の古窯がありました。一方西山製鉄遺跡には隣接して須恵器生産で有名な下原古窯群がありました。その両者に重なる様に黄金伝説が付随しているとすれば、「こがね」の正体と、伝説を育んだ歴史的な背景が透かし彫りに見えて来るのではないでしょうか。


5、下市道周辺
 二つの黄金伝説地についてはこれで或る程度は自分なりに納得がいったのですが、残る三升坂についてはどうでしょうか。この地に鉄の痕跡はあるのでしょうか。

 当地での鉄棒や砂鉄といった明確な物証を残念ながら今の所得ていません。しかしながら目を周辺に拡げると、かつての下街道周辺には少なからず鋳物や鍛冶に因む字名が点在する事に気づきます。例えば庄名には「鍛冶屋敷」松本及び神明に「金地蔵」出川近くの「金ヵ口」と言った具合です。この他、下街道沿いには西尾に「鋳物師洞」の字名があり、此処ではかつてマンガン鉱山が稼動していました。

それらの字名が金屋に因むものである事は疑いを得ません。地名を一つの化石資料と考えるならば、物証を欠くものの、或る時期下街道周辺に金屋の営みがあった蓋然性は否定しきれないと思われます。これを補うものとして、『白山円福寺寄進帳』に出る「鍛冶屋前」の記事や寺宝の「金谷済」銘文等も挙げる事が出来るかと思います。

 実はこの地或の金屋について思いを馳せたのは、私一人ではなく、故井塚政義氏も下街道上野一帯に金屋の存在を想定された方でした。井塚氏は先の西山製鉄遺跡から出土する鉄滓を主な論拠とし、当地上野を有名な水野太郎左衛門の故地と主張されたのでした。水野太郎左衛門家は周知の通り江戸時代を通じて、尾張藩の鋳物の総元締めを行っていた由緒ある鋳物師の家柄です。初代は上野太郎左衛門とも称しましたが、その 「上野」とは太郎左衛門家が代々居住した名古屋市千種区鍋屋上野から来る、とするのが一般的通説です。しかし、井塚氏は敢えてそれを春日井市の「上野」と考えられたのでした。

 この問題は、太郎左衛門関連史料中最も初期に属する大永二年(1522)「尾州山田庄上野郷太郎左衛門範家」の鰐口銘文中の「山田庄」の解釈が絡んで来ますので、話が若干ややこしくなります。山田庄は元亀三年(一五七二)頃には春日井郡に編入されており、水野家文書中の由緒書には出自が「春日井郡上野」となっていて、この「上野」が千種区上野と春日井市上野と両方に解釈される余地を残すのです。この問題を此処で深く論ずる余裕はありませんが、最近の『愛知県地名大辞典』や『愛知県姓氏人物大辞典』にも春日井市上野が、水野太郎左衛門の故地と解説されている事だけは紹介しておきたいと思います。

 春日井市周辺では近世以前にはむしろ、犬山の羽黒鋳物師が世に知られていました。戦国末期頃、この羽黒鋳物師の衰退と水野太郎左衛門家の興隆とがパラレルな関係で推移しますが、この辺の動向とも照らし合わせながら「上野」の金屋の問題を考えて行くべきかと、今は考えています。


6、白山円福寺「かねば」
 坂下から一歩高蔵寺ニュータウンに入れば高森山が目につきます。山頂に古墳を伴ったこの高森山にもかつてマンガン鉱山が稼動していました。いわゆる狸掘り採掘の跡が今でも残っていますが、鉱山跡に接して鉄分の濃い、分厚い褐鉄鉱の脈が浮き出ています。山下の高蔵寺高校のある一帯でも造成中には沢山の高師小僧即ち褐鉄鉱が見られたそうです。褐鉄鉱自体は特に珍しいものでもありませんが、高森山は露頭としてはかなり大きなものです。この褐鉄鉱が鉄素材になり得るかどうかは従来議論のあるところでしたが、近年、大同工業大学・横井時秀教授の製鉄実験によって充分用を成す事が証明されています。この実験は新聞にも紹介され、私も実際に見学する機会を得ましたが、簡単な設備で鬼板から玉鋼(たまはがね)が採れる事に正直驚きました。しかし、それにしても褐鉄鉱は尾張東北部には一般的なものですので、高蔵寺ニュータウン界隈に鉄を探る試みとしては、如何に高森山が厚い鬼板層であるとしても、やや不足と言わざるを得ません。

 何故私が此処で高蔵寺地区にこだわるのかと言いますと、高座山の麓の五社大明神社には、此の近隣では余り見られない天目一箇神が祭られているからです。この神は周知の如く金属・製鉄神として良く知られた神で、此の地に天目一箇神が祭られる以上何かの特殊な事情がなければならないからです。

 この天目一箇神については前から心に引っ掛かっていたのですが、昨年夏旧高蔵寺町在住の日比野実氏からお手紙を頂き、白山神社の裏手丘陵にかって「かねば」と呼ばれる豊富な砂鉄を含む場所があった事を教えられ、理解の糸口を掴んだ様な気がしました。

 件の地には今は住宅が密集していますが、かつては椎の木池と呼ばれる雨池があり、そこから流れる繁田川の川底には砂鉄が黒光りしていたという事です。又丘陵下の湿田に「かねのき」と呼ばれる木が戦後まであったそうです。そう言えば『高蔵寺町史』にも白山地区の明治頃の字名として「金子木」が出ていたのですが、日比野氏の指摘があるまでこれを「かねのき」と読むには思い至りませんでした。「かねば」は私の知る限りでは、例えばこの近くでは瀬戸や多治見にも同様の地名があり、二例とも「鐘鋳場」から来るものでした。とするならば、白山地区の「かねば」も恐らくこの地の砂鉄を用い、白山円福寺の鐘を鋳た場所であったのでしょう。

 「かねのき」の場所は腰までつかる湿地帯だったという事です。とすれば天文十七年の奥書を持つ『尾張白山寺縁起』記事中の十一面観音を得たと伝える「田中松島」というのは或いはこの付近であったかとも考えられます。又、「かねば」に関しては、多治見の伝「鐘鋳場」付近に「朝日射す夕日輝く南天のもと金の鎖が百たぐり」の伝承地がある事も付記しておきたいと思います。


7、砂鉄層脈
 その後、高蔵寺中学裏の崖にも、かつて豊富な砂鉄層があった事を同中学出身の友人から聞きました。磁石で幾らでも砂鉄が採れたという事でした。この白山から高蔵寺にかけての豊富な砂鉄層と、先の高速道路小牧ジャンクション周辺の砂鉄層は80mの等高線上に存在します。そして興味深い事に、先の三つの黄金伝説地もやはり等高線八〇mラインに並んでいるのです。一体、これ等の事柄は何を物語っているのでしょうか。

 この八〇mラインの地層は、地質学上の新第三紀層即ち瀬戸層群矢田川累層に当たります。新第三紀は古東海湖の時代で湖底に重い鉄分が広く堆積した時代でした。従ってこの地層に豊富な砂鉄脈が存在するのは不思議ではありません。その層脈が地表に露頭した場所、それが「こがねの地」であり黄金伝説の地であった、と考えてみると一連の事象が一貫性を持って理解されて来る様な気がします。そして又、この「こがね」の地に「朝日射す夕日輝く」云々の伝説を後世に残したのは、「こがね」を生業の基とした産鉄民・金屋の徒であったろう、という結論が得られる様に思われるのですが、如何がでしょうか。


8、結語
 黄金伝説にふと目が止まり、調べていく中で、それが春日井市東北部の一角に集中している事への疑問から、自分なりにその納得の行く理由を求め、思考の曲折を経て一応の結論を得るに至りました。春日井市東北丘陵一帯が鉄に因縁浅からぬ地であった様子が、「こがね」を追って行く中で浮かび上がって来た訳です。この地の金屋が何時頃、如何なる状況下でたたら業を展開させたかについては、今の所、当地の須恵器生産に陰りが見え始めた時期、そして白山修験が美濃馬場から積極的に教線を拡大し始めた状況等を漠然と想定してもいるのですが、これらの事柄については尚多くの問題が残っており、今後の課題としたいと思います。

 従来、尾張の鉄に関する系統的な研究というものはそれ程多く成されている訳ではありません。この方面で纏まったものとすれば『東海鋳物史稿』があるのみで、無論、部分的には優れた研究も無しとはしませんが、総じて遅れている領域と言えます。しかし、目を転ずれば木曽川流域のみならず、一宮、稲沢、犬山、熱田台地等にも産鉄の痕跡は見て取れます。かつて我が春日井市にも規模の大きい産鉄の営みが存在し、そのかすかな記憶が時を隔てて黄金伝説として今に伝わったとするのは、いささかロマン的過ぎる見方なのかも知れませんが、あくまで蓋然性の問題を論じた訳で、知のトレンチと受け取って頂ければ結構です。
 この間、伝説の背景を尋ねてあちこち歩き回りましたが、その過程で、我が郷土は歴史の大いなるロマンをまだまだ包み込んでいる土地だと感じたものです。或いは私にはこの事が一番の収穫であったかも知れません。この間、梶田さん、日比野さんを始め、地学の長縄先生、郷土史の伊藤先生、梅村先生等々、色々な方々から助言や親切な案内を頂きました。この試みが曲がりなりにも何とか一つの結論に辿り得たのは全てこの方達のおかげです。誌面を借りて御礼申し上げる次第です。

小木曾 正明 (高蔵寺高校教諭)
(郷土誌かすがい46号 P7 h7/3/15)

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